スパゲッティ会長ぶろぐ

日々思うことをあれこれ。

3.11あの日、僕は生き直すことにした

まずちょっと関係ない話から始めるけれど、

つい先日のこと。証券会社の窓口に電話した時、「勤務先は変わりましたか?」と聞かれて、「いまは株式会社スパゲッティゲッティスパゲッティです」って伝えたら、クスっと笑ってくれました。

お堅めのイメージがあるところ。例えば銀行に行っても、郵便局に行っても、役所に行っても、この社名を伝えるとほぼ89%くらいの人は思わずクスっとしてくれる。

そのたびに僕は「この社名にして良かったなぁ」ってしみじみ思います。

 

 

前の記事で紹介した3/10佐谷氏のトークライブ3本立てを見てきました。

①じぶんでえらぶ、たのしい人生をいきる(主に小学生向け)

②つながりの仕事術〜「ありえない」をブームにする方法

③ウルトラシャルソン報告会

 

①佐谷さんのお話は子供たちにも響く。子供たちがキラキラした目で引き込まれていくのが深く印象に残りました。

②(講演を何度か拝聴させていただいてるのだけど)佐谷さんは会場の空気でファジーに話の組み立てを変えていく。どんな組み立てでも流れを持っていけるんだなぁっていうところに感服した次第。

③東北の復興応援でウルトラシャルソンを始め、全7回890kmを走破したお話。

www.google.com

「3年たてば忘れられてしまう」っていう言葉から「いまの東北を実際に走ってみて発信しよう」という趣旨で始められたウルトラシャルソン。

 

「もし知っていたら参加したかった」ってやるせない気持ちだけど、冷静に考えると当時社畜まっしぐらだった自分ではこのイベントの存在を知っても参加には踏み切れていなかったかなとも思う。

 

昨日は8年目の3.11。

上のマップのリンクから報告の文章を読みながら、当時のことや自分と東北についてを思い出してました。

そしてここからは僕の個人的な話をします。

 

 

2011.3.11のあの日、僕は生き直すことにした

この話を始めようとすると、とっても長くなるのであまり人に話したことがない。

僕は長い話をする習慣がほとんどない。というのはうちの家庭が女系社会だったからだ。僕が3歳の時に両親が離婚して、うちは母・長姉・次姉・末子の僕の4人。母と姉は3人ともものすごくおしゃべり。とくに筆頭たる母はマシンガントークでいくらでもしゃべり続ける人だった。

都合、役割分担というか「9割方(89%くらい)人の話を聞いている」というスタンスが自然に肉体に染みついてしまっている。最近になって、話す割合も少し増やさなきゃなどと自分でも思っているけど、いずれにしても長い話はあまりできない。

だがまぁ文章ならば、読み進めるも閉じるのも受け手の自由なので、長い話でもしてみようかとこうしてしたためることにする。

 

長くなるので、あらすじを先にまとめておきます。これ読んだらだいたい分かったことになります。

 

・僕は30歳までは生きないだろうと思い込んでいた

・母の病死~うつ病時代

・3.11大震災を経て生き直そうと決めた

・父の病死~東北旅行

・39歳から恩返しを始めよう

 

 

なるべく細部は削ったんだけどホントに長いと思うし、ここでページを閉じて「読んだよ!」って言ってもらって構いませんw

 

 

僕は30歳までは生きないだろうと思い込んでいた

僕は3歳から小児ぜんそくだった。病院に運ばれて生死の境をさまようことが何度かあったと聞くので、まあまあ重度だったようだ。

ぜんそくの発作はつらい。とくに息を吐くことが、他のなにがしかの苦しみにたとえようもないほどしんどい。

発作が出ると子供心にも本当に死ぬかと思い「しむ、、しむ、、」と訴えるのが常だった。

「しぬ」じゃないのは言葉が拙かったからではなくて、「ぬ」を発音するには力がいるからだ。やむなくわずかな吐息だけでも言える「しむ」になる。「くるしい」だと「くひ」になる。だいたいこの二つしか言えない。

「くひ、、、」「しむ、、、」こんな感じです。*1

 

だからだろう、僕は子供のころから「自分は早死にする」と思い込んでいた。死について考えた数多の夜があり、「死ぬということは自分が消えて無くなるということだ」と9歳くらいには結論を出して、それゆえに死ぬことが本当に怖かった。

 

いつしか「自分は30歳までに死ぬだろう」って思うようになった。なぜ30だったかはよく分からないけど、「おれは30までは生きないからさ」ってまわりに言っていた。

ぜんそく自体は、中学半ばくらいを過ぎてから発作はめったに起こらなくなったが、「おれは30までは生きないからさ」っていうのはその後もずっと残ったままだった。

三つ子の魂百まで、ということわざはけっこう強力でおそろしい。

 

母の病死~うつ病時代

2007年4月24日、母が突然倒れる。ひとり暮らしだった母は、喀血で声が出せず電話ができないからだろう、夜中の3時ころ自力で這うようにして消防署に行ったという(看護師から聞いた話)。翌朝、知らせを受けて病院に駆け付けた僕ら姉弟に、医師は「すでに末期ガンでいつ急変してもおかしくなく、もって2週間」だという。
それから僕は不眠症になった。いつ連絡が来るか分からないので気になって眠れない。病室のソファでだけようやく眠りにつける。

医師に言われた2週間よりは長く持ったが、意識を取り戻すこともなかった。

母は6/16に息を引き取った。56歳だった。

突然倒れてからの母の死に様は潔かった。女手一つで育ててもらった息子としての率直な感想だ。

 

しばらくして僕は不眠から心療内科に通い、やがてうつ病の薬を飲むようになった。飲食店に勤めていて仕事には毎日行けていたので、重度というほどではなかったろう。仕事以外の時間は部屋にこもってうずくまっていることが多かった。

うつ病の薬を飲むと頭が重くもっさりとしていて、この頃の数年の記憶はもやがかかったようにうすぼんやりしている。酒も毎晩浴びるように飲んでいた。

2010年には30歳になってしまった。ずっとおぼろげに「30まで生きないだろう」と思っていた僕にはその先の人生プランはなかった。26の時に飲食店を起業して、それは失敗したんだけど、その時点でやりたいことの一区切りはついていた。

死にたい。いつ死のうか。そろそろ踏ん切り付けて死ぬか。と浮世からの退場計画を練り始めたのが2011年のはじめだった。

 

3.11大震災を経て生き直そうと決めた

3.11仕事場が揺れた。僕の育った神奈川県秦野市でも震度3や4というのは過去に何度か経験したことがあったが、あきらかに異質な感じがした。

どうもとんでもない災害のようだ、ってことになって夕方に店は閉店して帰宅した。

TVで見た津波の映像は衝撃だった。一晩中、祈るようにニュースを見続けた。

数日後から計画停電があった。計画停電の日は店が休みになったので、付近をぐるっと散歩していた。

 

音がまったくない。

人が一人もいない。

まるで人類が滅亡した後の世界のようだった。

 

そうしたら突然ふと、

『生きよう』

という言葉がわいてきた。

 

どうせ死ぬつもりで、やることもなかったんだから東北に行こうと思った。東北のために何かしなきゃ。

震災から数日後、職場に辞めると伝えた。

当時、ほとんどの飲食店はギリギリの社員で回していた。風邪で休んだことは一度もないし、有給を取ったこともほとんどない。飲食業界の従業員はみんなそうだった。平時ならば辞めるのも容易ではない。勤めていた店は、商工その他のパーティーやケータリング料理の提供が売上の半分以上で、それらはすべて自粛でキャンセルになったため、今しかないと思った。仕事がないためすぐに辞められた。

 

ハローワークで震災復興の土木作業員の求人を探して片っ端から申し込んだ。

単身乗り込むという選択肢はないと思ったから。たとえボランティアで行っても2、3日で帰ってくることになるだろう。継続して滞在できるようなお金も持ってなかった。

先に結論を言うと、恥ずかしながらこのとき東北へは行けなかった。

登録した求人元の会社に何度も連絡したが「まだ現地入りできる段取りが立たない」という返事が数か月続いた。

企業も見切り発車で求人を出したのだろう。

いま思い返せば無理してでも一度現地入りしておけばよかったのにと思う。実際に見ることでなにかしら得られるものや、運がよければ働く先が見つかることもあったかもしれない。

くしくも僕自身は、生きようと決めてしまってから東北に行けなかったことで別の道が開けることになった。

 

しばらくすると自分も無職では生活できなくなる。雇用保険を活用し、職業訓練校に通うことにしてシステムエンジニアコースを受講した。

この時は、とにかく必死で勉強した。新しい分野でプロにならなきゃいけないのだ。1日最低10時間以上は勉強しようと決めて、9ヶ月貫き通した。いわゆる勉強っていう勉強を人生で一番やった期間だと思う。資格もIPAの応用情報などを取った。現役で働く人が受験しておおよそ2割が合格するレベルの資格だ。

そしてwebエンジニアとして就職した。

 

父の病死~東北旅行

2014年の3月だった。広島に住んでいる親父が東京町田の姉の家に遊びに来た。

俺と二人きりになったタイミングで、ふと黙り込んでから絞り出すようにいう。

「わしはガンになってしもうたんよ」「おそらく余命半年ないだろうと医者に言われた」

広島の病院で精密検査の予定があったので、その時はひとりで広島へ帰った。

それから「東京に来てくれないか」「わしは広島で誰にも迷惑をかけずに逝くんじゃ」というひと悶着ふた悶着があったのだけど、なんとか説得して姉の家に迎えることができた。

父は7/28に息を引き取った。65歳だった。

 

父は震災より以前から「東北のリアス式海岸を見に行きたいんよ」と何度か言っていた。だから告知されてから姉と「東北に連れていきたいね」って話をしていた。だが説得してあらためて広島に迎えに行って東京に連れて来た頃には、すでにとても旅行なんて行けるような病状ではなかった。

 

そうして後になって長姉と「父さんの代わりに行こうね」って話をしました。

2016年、二人で東北に行きました。

 

といっても旅行会社の2泊3日のバスツアーだったんだけれども、

仙台に入り、石巻、女川、南三陸気仙沼陸前高田、釜石、田老まで海岸を北上。

一番印象に残っているのは田老です。たろう観光ホテル遺構で、まさに津波が来るところが撮影された映像を見ながら、撮影したオーナーのお話を聞きました。

田老は、狭い湾の左右に高い崖が切り立っていて、さながら門のようになっているのですが、その崖に津波が当たった時、ドーンというすさまじい音とともに水しぶきが崖の3倍くらいの高さに跳ね上がったのが見えたそうです。

 

東北の町を巡る中で、活気が戻ってきている商店街や、港、物産販売所などもあったが、湾岸部はまだまだ荒野のような様相が残っていた。そして驚いたのは新しく建設途中の堤防の高さだった。

「堤防で海が全く見えない」っていう話を佐谷さんも言っていて、僕も同じ印象を持っていた。ですが、3/10トークライブにて元釜石市副市長の嶋田さんが登壇されておっしゃったのは、地元住民の85%はあの堤防に賛成しているとのことでした。

津波被害に遭われた町の人々の感じる恐ろしさは、容易に想像が及ぶものではないと気づきました。

 

39歳から恩返しを始めよう

佐谷さんのウルトラシャルソン報告会を拝見し、嶋田さんのお話を聞き、あらためて3.11について考えた。

そして3.11と自らとのつながりを振り返ってここまで書きました。

僕の身の上話なんて面白いもんじゃなかったでしょう。ここまで付き合っていただきありがとう。

あとはこの先の決意のお話を少しだけ。

 

僕は3.11の震災の時に『生きよう』って決断をした。東北のために何かしなきゃって。いわば東北に生かしてもらった。それなのに東北に行けなかった。

そして気づけば30代もずっと自分のために生きてしまった。

だから39歳から、恩返しというか恩送りをしようと思っています。

 

コワスペ日暮里を始めたのもそのためで、これからさまざまな活動を広げていくつもりです。

そのへんの構想についてはまた別の機会にでも。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

 

 

*1:ここはバイオハザードの「かゆ」「うま」を思い出してちょっとクスっとなっていただいてよいところです