鋸南エアルポルトと焚火と縄文。
まずは最初の3日間のご報告など。
鋸南町で焚火師として活動する
まー鋸南町でやりたいことは個人的にもいっぱいあるんですが、そのなかでも中軸に据えていきたいのが焚火師(自称)。この動画は10/2に焚火したときの。
鋸南町でなにやろうかな、どんな面白いことやろうかなって考えた時、一番最初に思い付いたのが焚火。僕は焚火が大好きだ。
東京都内に住んでいると、焚火なんてやれる機会はほとんど見つけられないけど、
僕が育った神奈川県秦野市なんかは田舎なのでわりとふつうに焚火する。あと今は亡き親父は陶芸家だったんだけれど、広島県のど田舎の山の中に陶芸を焼く窯があったので、行くとまぁいつも焚火をしていた。
焚火は落ち着く。
これは人類の本能なんだろうと思う。
火を焚いていれば野生動物に襲われる確率も下がるはずだしね。
さていざ焚火師で活動してみようと、いろんな人に話してみたら、どうも最近では焚火できるところはなかなか見つからず、焚火したくてもできないという。そうなんだ、初めて知ったわ。都市部はともかく、ちょっと田舎ならだいたい空き地があれば焚火できるもんだと思ってた。
ここ最近、焚火についてずっと考えていたら、「どうせ焚火するんなら、土偶と縄文式土器を焼こう」と思いついた。鋸南エアルポルトはアーティストインレジデンス・AIRをもじっている。僕もアーティストやってみよう。39歳・ゼロからはじめるアーティスト。
それから千葉の歴史や縄文時代についていろいろ調べている。
縄文時代の遺跡である貝塚は、日本全体のうち1/4以上が千葉県で発見されているという。いまより1万6千年前から3千年前までの縄文時代につくられた貝塚の、あくまで発見された数なので、千葉県に集中している理由はいろいろあるだろう。
でも少なくとも、かなり多くの縄文人たちが千葉で生活していたといえるだろう。
もともとは焚火からの直感的な思い付きだったんだけど、実はやっぱり千葉と縄文は相性がいいってことだ。
ってなわけで、焚火と縄文の秘めたる可能性の広がりを求めて、鋸南町で焚火師として活動していこうと思う。
乞うご期待。
鋸南町で新しいプロジェクトを始める
先日、遅ればせながら『天気の子』を見てきました。
ネットを見回した限りでは賛否両論相半ばのようだが、すばらしい作品だと思う。
前作『君の名は。』に続けて、今作『天気の子』ともに、「自然の脅威」に対する「人の祈り」をテーマにしたボーイミーツガール。
批判的な意見も多いラストシーンだが、いや、これ以外にないだろうと思える、とても美しいラストだ。
未視聴の方はぜひ劇場でご覧いただくことをおススメする。劇場で見るほうが映像と音が格別に良いからね。
ジブリへのオマージュ(とくにラピュタ)が随所にみられるのも微笑ましい。
ラピュタ好きなら「あっ、このシーン!」って一目でわかるあざとさですw
千葉県鋸南町で新しいプロジェクトが始動します
さて本題。
10月から佐谷恭さんと鋸南町で新しいことを始めます。
とりあえず、紹介映像作ったのでご覧ください。ちなみにこの映像は、動画ドシロウトの僕が撮影編集しました(笑)
いまクラウドファンディングで支援を募っています。
この記事時点でまだまだ目標に達していないので、どうかご支援お願いしたいです。
先日、9/9に関東に上陸して甚大な被害をもたらした台風15号。
なかでも被害がメディアで大きく報道された鋸南町です。台風で初めてこの町の名前を知ったという方が多いかと思います。
なぜ鋸南町なの?
これはもうひとえに縁です。あまり長文になるといけないので、ここではごくざっくりと。
①佐谷さんとの出会い
僕が初めて佐谷さんとお会いしたのは2018年5月、福井県の高浜でした。神戸のコワーキングスペース・カフーツを運営する伊藤さんが企画したコワーキングツアーに参加した。
そこで出会った佐谷さんとフェイスブックを交換したところ、「同じ高校出身じゃん!」となって意気投合した。5歳くらい僕の方が年下ですが、よく聞くと互いの実家も直線にして1kmくらいなので確実にニアミスしてる(笑)。
それから佐谷さんの講演やイベントに頻繁に参加するようになりました。
②鋸南町との出会い
今年の2/2、鋸南町主催のビジネスマッチングツアーという、企業誘致と町おこしのイベントにて、佐谷さんが基調講演をするということで、鋸南町に行きました。
前日入りして鋸山に登る。鋸山は「ラピュタの壁」とも形容されている、かつての石切り場の遺跡がある。この山の風光明媚さと、圧倒的な廃墟感には一発でシビれた(これ新海アニメくらい作画すごくない?じつは僕が撮った写真で無加工だけれどw)。もっといろいろ画像見たい方は鋸山で検索してみてください。
この鋸南町は、昭和の時代に海水浴場として栄えていたことや、うつくしい夕日が海に沈むところなど、佐谷さんと出会った福井の高浜をふと思い起こすような土地でもありました。
③鋸南町でなんかやろう!
鋸南町は人口約7,800人のちいさな町。
「でもいい雰囲気の町じゃないか。ここでなんかやろう。」って佐谷さんと話しながら盛り上がりました。その後も4回5回と訪れるうちに、佐谷さんがプロジェクト案を固めていき、「じゃあやろう!」「僕も手伝います!」ってなもんで10月から賃貸を契約しました。内容はリンク先のクラファンをご覧ください。
僕もここ鋸南町で本気で面白いことをやっていくつもりです。なにやるかについては、またおいおい書いていきます。
クラファンにご協力お願いします!
現状はまだ物件を手配しただけで、鋸南エアルポルトはこれからみんなで作り上げていきます。クラファンには立ち上げのアイディア提案・実行も含めて参加できるプランがいくつか用意してありますので、一緒に作り上げていく仲間として、ぜひともご協力いただきたいです!
どうぞよろしくお願いします!!
鋸南町台風15号被災ボランティアリポート
2019/9/9、台風15号ファクサイによる関東圏(とくに千葉県や伊豆諸島)の甚大なる災害がありました。
千葉市付近に上陸するときの勢力は中心気圧960hPa・最大風速40m/sの「強い」勢力であったが、関東上陸時の勢力では過去最強クラス*1。
千葉県南部の被災状況がSNSで伝わり始めたのが9/11頃。
この時点では「TVではほとんど報道されていないようです。誰か伝えて!」なんて声がSNSで上がっていた。
少しずつSNSで被害状況が拡散されていく中、
鋸南町でご縁があって知り合いになった菅野さんから「14日からボランティアに行くので車で一緒に行きませんか」とのお誘いをいただきました。
急遽、土日の予定をキャンセルして向かうことにする。
この記事では、14~18日の5日間千葉県鋸南町に滞在してボランティア活動などを行う中での、個人的な経験と感じたことなどをお伝えしようと思う。
要点まとめます。
日々の詳細に興味がある人はフェイスブックに毎日アップした記事をあとでご覧ください。とりあえずは飛ばして進んでください。
1日目
2日目
3日目
4日目
鋸南町の被災状況
すでにマスメディアやSNSなどで動画や写真をたくさんご覧になっていることでしょう。
以下に貼るのは現地の瓦礫集積所の写真です。
トラックやバンなどの運搬手段がある住民は、町内2ヶ所の集積所に持ち込みます。日々持ち込まれるので、現在はもっと大量に積み上げられていることでしょう。
町全体の瓦礫集積所2ヶ所のうちひとつ、旧佐久間小。(16日時点)
もう1ヶ所、鋸南町保健福祉総合センターすこやか。(17日時点)
2ヶ所の集積所が受け入れを始める15日以前は、管区ごとの集積地に集めていました。
町内の管区ごとの一時集積地(これが20数区ある)。(15日時点)
個別の被災画像を載せずとも、この瓦礫の量で被害の甚大さがおおよそ分かるかと思います。住民7,800人の鋸南町です。
鋸南町、被災住民の生活環境やインフラ状況
■停電状況
東電のHPでは9/13頃まで、停電が5,000軒以上。(おそらくほぼ全域)
9/14頃には2~3,000軒程度で、9/18頃には1,000軒以下となる。
■その他9/14時点
主要道路の交通はほぼ可能になっており、物流は回復途上でした。コンビニは(倒壊した一店舗を除き)営業を再開し、ラインナップは乏しいものの弁当なども置いてあった。スーパーの営業も再開されていた。飲食店も営業し始める店舗がいくつかあった。
支援物資についても、あくまで配布拠点には十分にあったようす。
携帯の電波は中継車が配置されており、僕が行った範囲ではほぼ繋がっていた。
断水地域は100軒前後。
14~18日、ボランティア活動内容
14~16日はボランティア受付8時開始~16時まで。18日以降9時受付~16時。
ボランティアセンターで受付をして、マッチング会場で活動内容ごとに人数割り当て、グループごとに現場で活動、作業完了後受付に戻る→再度マッチングという流れ。
■僕個人の活動実態
・14日午前「ニーズ調査票」を持ち、各家をヒアリングして回る。自分の受け持ちは20軒ほど
・個別のお宅の片付けや倒木の処理等、通算5軒
・一管区の瓦礫集積地の整理整頓2ヶ所
・全体の瓦礫集積所での瓦礫受け入れと整理を1日
■体験から得たポイント
・高速道路を利用する人は証明書を出すと無料になる。事前にプリントアウトしておく。
・現地ではボランティア保険を受け付けしていないので、事前に入っておくとよい。最近はネットで申し込めるらしい。
https://www.saigaivc.com/insurance/
・雨天時はボランティア受付が中止になる。だが復旧作業自体は行われているので、独自のボランティアネットワーク、役場や地元の方などとのパイプがあれば人手が必要なところを教えてくれる。
・雨天時とその翌日は、カッパ(フード付き上下)、長靴が必須。天気予報を確認し、事前に用意したい。
・災害復旧作業現場では、ガラス、トタンやサッシなどの金属、釘の飛び出た木材など、鋭利な瓦礫を扱う作業が非常に多い。ふつうの軍手ではかなり恐怖を覚える。ラテックスゴムが塗布されたグローブを推奨。
・高所作業可能な職人がとくに求められる(一般の人は屋根の上は禁止)
・チェーンソー持参、および扱える人は大活躍。
※あくまで今回の体験の一部なので、ボランティア活動心得が必要な方は先人のまとめ記事などを参照してください。
鋸南町の住民の様子
僕の個人的な感想かつ、あくまで今回出会ってお話させていただいた数十人の方々から受けた印象ですが、
鋸南町では、罹災した住宅の方でも、明るく話す人が多かったです。
「いままで80年生きてきて、災害なんて初めてだ。とうとう順番が回ってきたんだなぁ」なんて笑って話すおじいちゃん・おばあちゃんが多くいました。もちろん若い人も明るいです。
鋸南町では断水している家が100軒程度。今回の滞在では断水のお宅の方とは出会いませんでした。鋸南町はプロパンガスなので、水とガスがあれば不安は小さかったということのようです。
その一方で「断水しているところの人はつらいと言っている」という話も耳にしました。
滞在中の飲食
閑話休題というか、箸休め的に、食事の画像なども載せときます。
ブロック栄養食も背負って行ったんですが、飲食店が営業していると分かって、できるだけ外食することにしました。これもひとつの支援になればと。
ボランティアで移動車販売が来ていました。銀座から来て無料提供していました。
まとめ、僕らにできること
今回の鋸南町滞在中、たくさんの方に応援と励ましのメッセージをいただきました。
ほんとうにありがとうございました。
なかには、「自分は行けなくて申し訳ない」とおっしゃる方も多かったです。
311震災の時、僕もそう思っていました。
復興支援ボランティアに行こうと、作業服、カッパ、安全靴長靴等ひと揃い購入した。けど東北に知人は皆無だったので、災害後しばらくの間はボランティア難民になってしまう確率が高く、むしろ迷惑になると思い行けなかった。
そのあと土木作業員としてなら入れるかと思って何社か就業希望登録したのだけど、お呼びがかからず結局行けずじまいになってしまった。
鋸南町には、たくさんの方の助けをいただいて、しばらく滞在することができました。無縁であれば一日だけでも大変だったでしょう。
だから僕が千葉にボランティアに行けたのは、たまたま縁と状況が許してくれたのであって、支援に行ったから偉いとかすごいとかいうことでは決してない。
311の時のことは自分なりに悔やんで、もやもやしたものが残っていたので、「行けるか行けないかも縁のようなものだ」そう思えるようになったことが一つの収穫でした。
今回の滞在でたくさんの方のお話を聞くことができました。
直接お手伝いすることができたご家族には、それはもうものすごく感謝のお言葉をいただきました。お手伝いすることがない方にも、僕らが関心を持ってお手伝いに来ていることをお伝えするだけで、みなさま嬉しそうにしていただけました。
ある日、作業が終わってから、以前に一度お会いしたことがあったおばあちゃんのお宅を訪ねました。小一時間ほどお話ししたあと、「あなたと話してたら元気が出てきたよ」とおっしゃいます。そしてお暇する際には、こちらが「もうこのへんでいいですからー!」って叫んだくらいずっとお見送りされました。
話をするだけでもいいんだ。
関心を持つことがまず大事だって実感しました。
台風15号の被災地も、復旧には数年がかりになるはずです。
被害の甚大さについてとか悲観的になることばかりを伝えるんじゃなくて、これからが明るくなるような話を伝えたい。
また別の記事で書きますが、鋸南町で「鋸南エアルポルト」というプロジェクトを10月から始める予定です。これは台風が来る前から進行していたものです。
鋸南エアルポルトから、「鋸南町は元気です」っていうことを発信していきたいと思います。
長文、お読みいただきありがとうございました。
明日21日も、仲間たちとボランティアに行きます。
選挙について考える
統一地方選挙が4/21にある。
バンドをやり、猫と遊んで暮らして来た僕にも政治がわからぬ。*1
じつのところ僕は、2014年の衆議院選挙以降、投票には一度も行っていない。
・・・というと、良識のある方々の一部からは「投票はいかんとあかん」「そもそも国民の義務であろう」というお言葉をいただくかもしれないけれど、なんでかっていうのはすぐに述べるので脊髄反射はちょっと待って。
いうて僕も「投票は国民の義務だろう」と思っていたクチでそれは学校で繰り返しそう教えられたから、常識として刷り込まれていた。
なので選びたい人なんていなくて本当に嫌だなと思う時でも、白票を投票することにしていた。
だが最近では投票は義務だというのはちょっと変だなと思っている。
理由はおおまかに2つある。
まず1つ、日本の衆議院には解散権が存在すること。だいたいが与党の党利党略のためにこの解散権というのは駆使されていて、本当にくだらない。そのたびにいちいち投票所に行かなきゃいけないし、衆院選では事務費用だけでも600億円の税金がかかるという。解散権というルール自体の是非についてはここでは論じないが、与党の自利のために600億円使われるのは許されるべきではない。というか1億くらい俺によこせよそしたら投票に行ってやる。つまり解散権を濫用されないためには投票に行かないというスタンスで対抗するよりほかにないだろう。白票ですら解散選挙の実施自体には賛成したことになってしまわないか?
2つ目。国の選挙で投票所に行くのは費用対効果的にいってコストが高い。尊い一票だなんていわれているが、小選挙区や比例代表制の一票なんて確率的にほぼ誤差と言って差し支えない。もし誰かをどうしても応援したい気持ちがあるんだったら、俺は自分のたった一票じゃなくって大人数が知ってくれるように発信したいところだね。時間効率的な話。投票所に行って並んで投票して、1~2時間が失われるわけで、それならSNSで広めまくった方が効率的やんか。でも応援したい人がいない。じゃあ誤差だから行かない。こういうと「みんながそう思ってしまったら誤差じゃなくなるでしょ」って反論もあるかもだけど、民衆とは何かとか確率論とか考え合わせたらやっぱり誤差だろう。
さて、
なにがしかについて現状の批判をするならじゃあこのシステムどうしたらいいかっていう話もしなきゃだ。
答えはひとつ。たぶんこれだけでほぼ解決できる。
投票をネットでできるようにする。むしろネットでしかできないようにする。
これだけ。
1つ目の解散権問題について。1回システム開発したらあとは選挙のコストが下がるでしょ。ネットでしか投票できないようにすれば1回600億を100分の1くらいにできるんじゃないか。だからといって与党の自利で解散するのはやめてほしいから、今回の選挙そのものについて賛成かどうかも投票できるようにしよう。反対多数なら選挙そのものを無効にすればよい。選挙実施コストが低いのであれば解散自体の是非をその都度諮ってもいいということである。*2
2つ目。投票所に行くような時間の無駄がなければ、誤差だって投票してやるかという気にもなる。それにネット投票ということになったら選挙戦の主戦場はSNSに移り変わり、選挙自体が面白いものになるぞう、きっと。候補者は、街宣カーで名前ばかりを強調して走るのをやめ*3、ネット上で自身の政策や思想をいかにわかりやすく面白く伝えるかに注力するようになる。つまり本当の内容が問われるようになる。若者が投票に行かないのはコストにリターンが見合わないからだが、SNSで盛り上がってるのを見たらみんな投票したくなるはずだ。
ここまで、選挙に対するスタンスを書いたが、上記理由でここ数年投票に行ってなかった僕がなんと今回の地方選は投票に行くことに決めている。それどころか、ある荒川区議会議員候補の応援として選挙カーに同乗するなどというウルトラCなことをやってみた。今日のことです。2時間だけだけど。なんでかは下に書く。
明戸まゆみさんと選挙カーをパシャリ
僕は日暮里に住むようになってコワスペを始めて、荒川区には自身の活動でなにか還元していきたいと思っている。
あらかわらいふというコミュニティでイベントに参加したりしている中でお知り合いになった現職区議の明戸まゆみさん。去年の暮れからなんだかんだ5・6回は顔を合わせてる。うち3回くらいは結構な時間お話させていただいたし、コワスペ日暮里に遊びに来てくださったこともある。
明戸さんはほんわかとなじみやすい方で、お人柄がとても素晴らしい人。
だから応援したいと思っていた。
政治には興味なかったしこれからもあまり興味を持つことはないと思うのだけれど、荒川区には何かしたいと思っているし、そうなると荒川区の政治については少しの関心があったほうがいいだろう。
そう思っていたら明戸さんより「手伝ってみますか?」とのお誘いをいただく。
じゃあ選挙のことを内側から見てみるのも良いかと、わりと軽い気持ちで事務所にお伺いしたら、気づいたら選挙カーに乗ってしまうというこのゆるふわ感がgood!
明戸さんが3回の当選10年の間に具体的にどんなことを成されたのかとかは僕はほとんど知らないし、その手腕がどういう評価に値するものなのかは一緒に仕事したことがないので分からないけど、そういうのは極論どの候補者についても分かりません。たとえば、肩書や経歴ばかり立派に並べ立ててるけど実際は仕事できない人って大概どんな会社にもいますよね。しょせん外から見るプロフィール文などで内実まで理解できるとは限らない。だから人柄がいいというその一点で応援します。
ちなみに荒川区区議選の当落ラインは過去の選挙データを見ると得票数1,500票前後となっている。これなら衆参選挙とは違って1票でも誤差ではないので投票します。
んで上で言ったこと*4を有言実行しようとこうして記事にもしたというわけです。 *5
こうかん文庫①泣き虫しょったんの奇跡
まずは「こうかん文庫とは何ぞや?」っていうところから。
説明しよう!*1
こうかん文庫とは、コワスペ日暮里で行われている書籍を物々交換する仕組み、およびその蔵書のことである。
基本ルールは1つだけ。
あなたが誰かに読んでほしいと強く思える本を、こうかん文庫の1冊と交換する。
なんでこんな仕組みを考えたかっていうと、たくさん読んでいても、実際にいい本に出合うのってなかなか難しいよなっていうのが実感としてありまして。
総務省の統計によると年間7~8万冊くらいの新刊書籍が出版されているという。僕はまぁまぁ読む方だと思いますが、せいぜい年間平均100冊前後です。アンテナ広げて情報収集してるつもりでも、当たりの本と出合う確率はけっこう低いです。
だけど直接の知り合いに「この本ほんとうにすっごくいいよ!」って紹介される本は、読んでみて"当たり"のことが多いなって。
じゃあその「ほんとうにすっごくいい!」って思う本だけ自然に流入する仕組みがあればいいじゃんって思った。
誰かの「ほんとうにすっごくいい!」本が、別の誰かの「ほんとうにすっごくいい!」本と1冊ずつ交換されていけば、延々と「ほんとうにすっごくいい!」本が流通し続けますよね。たぶん。
「レコメンド募ってから自分で買えばもっと手っ取り早いんじゃない?」って思うかもしれません。でもこれは実際に自分の足で運んでくるからこそいいのです。そして思いがけない本と出合ってこうかんして帰る。
そんなわけで始めました。こうかん文庫。
基本ルールは上述の1つだけですが、サブルールもいくつかあります。
・こうかんした本は、なるべく長期保有しないで、誰かにあげるか、こうかん文庫にまた持ってきて他の本とこうかんする
・上下巻などはワンセットで1冊として数える(※坂の上の雲全八巻とか三国志全60巻とかは持ち運びに適さないのでなし)
・傍線、書き込み、ご自身の署名、見知らぬ誰かへのメッセージなどの書き加え自由。
いずれは専用ウェブサイトをつくって、それぞれの本のこうかん来歴がネットですべて見られるようにしようと思っていますが、当面すぐ必要でもないので作業が進んでいません。*2
今現在のラインナップがこちら
実用/ビジネス/ノンフィクション系と文学/エンタメ系を半々くらいにして15冊。
多少入れ替えるかもしれませんが、個々の本の交換されやすさとの兼ね合いで、しばらくはほとんど増やさないと思います。
こうかん文庫の栄えある利用者第一号はのりんごさん!
さて、こちらの「泣き虫しょったんの奇跡」瀬川晶司著の感想を書きます。*3
ざっくりとあらすじからいうと、
小学校高学年で将棋と出会った少年が、年齢規制の26歳までにプロ入りできず一度諦め、数年後アマチュアから再起して、その実力が将棋連盟に認められたことによって新設されたプロ編入試験にて35歳でプロになる。
というお話。
タイトルには「奇跡」とあるけれども、本質的には人との出会いのストーリーだと読める。
たくさんの人との出会いがあり、その人たちに支えられることで、それまでの将棋界ではありえなかったアマからのプロ編入*4を成し遂げます。
なかでも一番の出会いは序盤、小学校5年生の時の担任、苅間澤先生とのエピソードです。
本書の苅間澤先生の発言には名言と呼べるものがいくつかあるのでまず抜粋する。
「私はあなたたちに、人が悲しいときに寄り添ってあげる友だちよりも、その人が喜んでいるときに、よかったねと一緒に喜んであげられる友だちになってほしいな」
「セガショー*5が将棋が強いのは、セガショーが将棋に熱中しているからよね。~中略~ どんなことでもいいから、それに熱中して、上手になったことがある人は、いつか必ずそのことが役に立つ日が来ます。そういう人はまちがいなく、幸せをつかむことができます」
「だからね、セガショー。君はそのままでいいの。いまのままで十分、だいじょうぶよ」
「なんとかしなさい、セガショー」
なんといっても白眉は著者がプロ編入試験の第一局で敗れ、打ちひしがれて目の前が真っ暗になった時に届いた一葉のハガキ。
「だいじょうぶ。きっとよい道が拓かれます」
このシーンは前半のクライマックスといえる重要な箇所で思わず泣きそうになる*6。ぜひ読んでみてほしい。
セガショーが国語の時間に自分で書いた詩を朗読した時、
「なんてすてきな詩なの、セガショー! 君って、詩の才能があるのね!」
それまで作文が得意ではなかったという著者が、以降、周囲から作文で褒められるようになったという。まさにこの苅間澤先生の言葉によって才能が開花した瞬間だったろう。
この時に伸ばされた才能ゆえだろう。本書を読んでいて、ときどきハッとする表現に出合う。
なかでも一番に印象に残った一文だけ引用する。
えーっ、という子供たちの悲鳴で、満開の桜の花びらが何枚か落ちたように見えた。
引きアングルの映像がパッと思い浮かぶ、どこかユーモラスで面白みのあるフレーズだ。
苅間澤先生のエピソードだけで結構書いてしまったので、あとは読んでのお楽しみということにしよう。
僕にも26~30歳まで挫折していた時代があったため、自身と重なる部分も多かった。
前回のブログ記事でそのようなことを書いたのもあって、のりんごさんはこの本をこうかんしてくれたのだと思う。
のりんごありがとう!
さあ、
「泣き虫しょったんの奇跡」があなたにこうかんされるのを待っているよ!
あなたの1冊を持って、コワスペ日暮里にいらしてください(^^)/
3.11あの日、僕は生き直すことにした
まずちょっと関係ない話から始めるけれど、
つい先日のこと。証券会社の窓口に電話した時、「勤務先は変わりましたか?」と聞かれて、「いまは株式会社スパゲッティゲッティスパゲッティです」って伝えたら、クスっと笑ってくれました。
お堅めのイメージがあるところ。例えば銀行に行っても、郵便局に行っても、役所に行っても、この社名を伝えるとほぼ89%くらいの人は思わずクスっとしてくれる。
そのたびに僕は「この社名にして良かったなぁ」ってしみじみ思います。
前の記事で紹介した3/10佐谷氏のトークライブ3本立てを見てきました。
①じぶんでえらぶ、たのしい人生をいきる(主に小学生向け)
②つながりの仕事術〜「ありえない」をブームにする方法
③ウルトラシャルソン報告会
①佐谷さんのお話は子供たちにも響く。子供たちがキラキラした目で引き込まれていくのが深く印象に残りました。
②(講演を何度か拝聴させていただいてるのだけど)佐谷さんは会場の空気でファジーに話の組み立てを変えていく。どんな組み立てでも流れを持っていけるんだなぁっていうところに感服した次第。
③東北の復興応援でウルトラシャルソンを始め、全7回890kmを走破したお話。
「3年たてば忘れられてしまう」っていう言葉から「いまの東北を実際に走ってみて発信しよう」という趣旨で始められたウルトラシャルソン。
「もし知っていたら参加したかった」ってやるせない気持ちだけど、冷静に考えると当時社畜まっしぐらだった自分ではこのイベントの存在を知っても参加には踏み切れていなかったかなとも思う。
昨日は8年目の3.11。
上のマップのリンクから報告の文章を読みながら、当時のことや自分と東北についてを思い出してました。
そしてここからは僕の個人的な話をします。
2011.3.11のあの日、僕は生き直すことにした
この話を始めようとすると、とっても長くなるのであまり人に話したことがない。
僕は長い話をする習慣がほとんどない。というのはうちの家庭が女系社会だったからだ。僕が3歳の時に両親が離婚して、うちは母・長姉・次姉・末子の僕の4人。母と姉は3人ともものすごくおしゃべり。とくに筆頭たる母はマシンガントークでいくらでもしゃべり続ける人だった。
都合、役割分担というか「9割方(89%くらい)人の話を聞いている」というスタンスが自然に肉体に染みついてしまっている。最近になって、話す割合も少し増やさなきゃなどと自分でも思っているけど、いずれにしても長い話はあまりできない。
だがまぁ文章ならば、読み進めるも閉じるのも受け手の自由なので、長い話でもしてみようかとこうしてしたためることにする。
長くなるので、あらすじを先にまとめておきます。これ読んだらだいたい分かったことになります。
・僕は30歳までは生きないだろうと思い込んでいた
・母の病死~うつ病時代
・3.11大震災を経て生き直そうと決めた
・父の病死~東北旅行
・39歳から恩返しを始めよう
なるべく細部は削ったんだけどホントに長いと思うし、ここでページを閉じて「読んだよ!」って言ってもらって構いませんw
僕は30歳までは生きないだろうと思い込んでいた
僕は3歳から小児ぜんそくだった。病院に運ばれて生死の境をさまようことが何度かあったと聞くので、まあまあ重度だったようだ。
ぜんそくの発作はつらい。とくに息を吐くことが、他のなにがしかの苦しみにたとえようもないほどしんどい。
発作が出ると子供心にも本当に死ぬかと思い「しむ、、しむ、、」と訴えるのが常だった。
「しぬ」じゃないのは言葉が拙かったからではなくて、「ぬ」を発音するには力がいるからだ。やむなくわずかな吐息だけでも言える「しむ」になる。「くるしい」だと「くひ」になる。だいたいこの二つしか言えない。
「くひ、、、」「しむ、、、」こんな感じです。*1
だからだろう、僕は子供のころから「自分は早死にする」と思い込んでいた。死について考えた数多の夜があり、「死ぬということは自分が消えて無くなるということだ」と9歳くらいには結論を出して、それゆえに死ぬことが本当に怖かった。
いつしか「自分は30歳までに死ぬだろう」って思うようになった。なぜ30だったかはよく分からないけど、「おれは30までは生きないからさ」ってまわりに言っていた。
ぜんそく自体は、中学半ばくらいを過ぎてから発作はめったに起こらなくなったが、「おれは30までは生きないからさ」っていうのはその後もずっと残ったままだった。
三つ子の魂百まで、ということわざはけっこう強力でおそろしい。
母の病死~うつ病時代
2007年4月24日、母が突然倒れる。ひとり暮らしだった母は、喀血で声が出せず電話ができないからだろう、夜中の3時ころ自力で這うようにして消防署に行ったという(看護師から聞いた話)。翌朝、知らせを受けて病院に駆け付けた僕ら姉弟に、医師は「すでに末期ガンでいつ急変してもおかしくなく、もって2週間」だという。
それから僕は不眠症になった。いつ連絡が来るか分からないので気になって眠れない。病室のソファでだけようやく眠りにつける。
医師に言われた2週間よりは長く持ったが、意識を取り戻すこともなかった。
母は6/16に息を引き取った。56歳だった。
突然倒れてからの母の死に様は潔かった。女手一つで育ててもらった息子としての率直な感想だ。
しばらくして僕は不眠から心療内科に通い、やがてうつ病の薬を飲むようになった。飲食店に勤めていて仕事には毎日行けていたので、重度というほどではなかったろう。仕事以外の時間は部屋にこもってうずくまっていることが多かった。
うつ病の薬を飲むと頭が重くもっさりとしていて、この頃の数年の記憶はもやがかかったようにうすぼんやりしている。酒も毎晩浴びるように飲んでいた。
2010年には30歳になってしまった。ずっとおぼろげに「30まで生きないだろう」と思っていた僕にはその先の人生プランはなかった。26の時に飲食店を起業して、それは失敗したんだけど、その時点でやりたいことの一区切りはついていた。
死にたい。いつ死のうか。そろそろ踏ん切り付けて死ぬか。と浮世からの退場計画を練り始めたのが2011年のはじめだった。
3.11大震災を経て生き直そうと決めた
3.11仕事場が揺れた。僕の育った神奈川県秦野市でも震度3や4というのは過去に何度か経験したことがあったが、あきらかに異質な感じがした。
どうもとんでもない災害のようだ、ってことになって夕方に店は閉店して帰宅した。
TVで見た津波の映像は衝撃だった。一晩中、祈るようにニュースを見続けた。
数日後から計画停電があった。計画停電の日は店が休みになったので、付近をぐるっと散歩していた。
音がまったくない。
人が一人もいない。
まるで人類が滅亡した後の世界のようだった。
そうしたら突然ふと、
『生きよう』
という言葉がわいてきた。
どうせ死ぬつもりで、やることもなかったんだから東北に行こうと思った。東北のために何かしなきゃ。
震災から数日後、職場に辞めると伝えた。
当時、ほとんどの飲食店はギリギリの社員で回していた。風邪で休んだことは一度もないし、有給を取ったこともほとんどない。飲食業界の従業員はみんなそうだった。平時ならば辞めるのも容易ではない。勤めていた店は、商工その他のパーティーやケータリング料理の提供が売上の半分以上で、それらはすべて自粛でキャンセルになったため、今しかないと思った。仕事がないためすぐに辞められた。
ハローワークで震災復興の土木作業員の求人を探して片っ端から申し込んだ。
単身乗り込むという選択肢はないと思ったから。たとえボランティアで行っても2、3日で帰ってくることになるだろう。継続して滞在できるようなお金も持ってなかった。
先に結論を言うと、恥ずかしながらこのとき東北へは行けなかった。
登録した求人元の会社に何度も連絡したが「まだ現地入りできる段取りが立たない」という返事が数か月続いた。
企業も見切り発車で求人を出したのだろう。
いま思い返せば無理してでも一度現地入りしておけばよかったのにと思う。実際に見ることでなにかしら得られるものや、運がよければ働く先が見つかることもあったかもしれない。
くしくも僕自身は、生きようと決めてしまってから東北に行けなかったことで別の道が開けることになった。
しばらくすると自分も無職では生活できなくなる。雇用保険を活用し、職業訓練校に通うことにしてシステムエンジニアコースを受講した。
この時は、とにかく必死で勉強した。新しい分野でプロにならなきゃいけないのだ。1日最低10時間以上は勉強しようと決めて、9ヶ月貫き通した。いわゆる勉強っていう勉強を人生で一番やった期間だと思う。資格もIPAの応用情報などを取った。現役で働く人が受験しておおよそ2割が合格するレベルの資格だ。
そしてwebエンジニアとして就職した。
父の病死~東北旅行
2014年の3月だった。広島に住んでいる親父が東京町田の姉の家に遊びに来た。
俺と二人きりになったタイミングで、ふと黙り込んでから絞り出すようにいう。
「わしはガンになってしもうたんよ」「おそらく余命半年ないだろうと医者に言われた」
広島の病院で精密検査の予定があったので、その時はひとりで広島へ帰った。
それから「東京に来てくれないか」「わしは広島で誰にも迷惑をかけずに逝くんじゃ」というひと悶着ふた悶着があったのだけど、なんとか説得して姉の家に迎えることができた。
父は7/28に息を引き取った。65歳だった。
父は震災より以前から「東北のリアス式海岸を見に行きたいんよ」と何度か言っていた。だから告知されてから姉と「東北に連れていきたいね」って話をしていた。だが説得してあらためて広島に迎えに行って東京に連れて来た頃には、すでにとても旅行なんて行けるような病状ではなかった。
そうして後になって長姉と「父さんの代わりに行こうね」って話をしました。
2016年、二人で東北に行きました。
といっても旅行会社の2泊3日のバスツアーだったんだけれども、
仙台に入り、石巻、女川、南三陸、気仙沼、陸前高田、釜石、田老まで海岸を北上。
一番印象に残っているのは田老です。たろう観光ホテル遺構で、まさに津波が来るところが撮影された映像を見ながら、撮影したオーナーのお話を聞きました。
田老は、狭い湾の左右に高い崖が切り立っていて、さながら門のようになっているのですが、その崖に津波が当たった時、ドーンというすさまじい音とともに水しぶきが崖の3倍くらいの高さに跳ね上がったのが見えたそうです。
東北の町を巡る中で、活気が戻ってきている商店街や、港、物産販売所などもあったが、湾岸部はまだまだ荒野のような様相が残っていた。そして驚いたのは新しく建設途中の堤防の高さだった。
「堤防で海が全く見えない」っていう話を佐谷さんも言っていて、僕も同じ印象を持っていた。ですが、3/10トークライブにて元釜石市副市長の嶋田さんが登壇されておっしゃったのは、地元住民の85%はあの堤防に賛成しているとのことでした。
津波被害に遭われた町の人々の感じる恐ろしさは、容易に想像が及ぶものではないと気づきました。
39歳から恩返しを始めよう
佐谷さんのウルトラシャルソン報告会を拝見し、嶋田さんのお話を聞き、あらためて3.11について考えた。
そして3.11と自らとのつながりを振り返ってここまで書きました。
僕の身の上話なんて面白いもんじゃなかったでしょう。ここまで付き合っていただきありがとう。
あとはこの先の決意のお話を少しだけ。
僕は3.11の震災の時に『生きよう』って決断をした。東北のために何かしなきゃって。いわば東北に生かしてもらった。それなのに東北に行けなかった。
そして気づけば30代もずっと自分のために生きてしまった。
だから39歳から、恩返しというか恩送りをしようと思っています。
コワスペ日暮里を始めたのもそのためで、これからさまざまな活動を広げていくつもりです。
そのへんの構想についてはまた別の機会にでも。
最後まで読んでくれてありがとう。
僕は初めてのことしかやらない。 ーー佐谷恭
佐谷恭*1さんから
とゆう記事が回ってきた*2。
佐谷さんの事は、いずれこのブログで書こうと思っていた。
実は3/10のトークライブ*3の後に書こうと思ってたのだけど、
日頃、お世話になっているので誕生日祝いに代えてこの記事を書きます*4。
佐谷氏の近著に宛てて僕が書いたAmazonレビューを以下に引用します。
著者の佐谷恭氏は、
先日「平成の野菜」の栄誉を冠することになったパクチーを日本に広めた立役者であり、
近年のコワーキングの隆盛の一翼を担った先駆者であり、
日本全国津々浦々で年間に数十回開催されているシャルソンの考案者です。
前書きにて、
『僕は初めてのことしかやらない。起業して、人の追随やら経営理論の勉強もして、成功も失敗もして、結論として決めたのがこのことだ。』
と著者は記す。
著者が、既存の常識をくつがえしてブームを生み出すその軌跡を、ひととのつながりで未来を拓いていく有様を、試行錯誤や失敗も含めてありのままに描いたのが本書である。
著者は自らブームを巻き起こしてもなお同じ場所にはとどまらない。
パクチーハウス東京とPAXCoworkingを、営業的にいえば盛況にもかかわらず2018年3月に閉店した理由について、
『「右肩上がり」「成長」という20世紀までの幻想を断ち切る時代に自分たちがいる』
からだと述べる。
本書は、
かような時代に生きるわたしたちが、
社会の常識と自らの思い込みから自身を解き放ち、
行動を起こすことと、ひととのつながりによって、
その人生を切り拓いていくための道標になってくれることだろう。
う~ん。自分で書いといてなんだけど文章が硬いなぁ。。。
これじゃあ佐谷さんの真の魅力はぜんぜん伝わらぬぬぬ。
佐谷氏のすごいところ、たくさんありすぎて列挙するとこの記事を読むだけで満腹で終わってしまうので、僕は2点だけ挙げさせていただこう。ちょっと物足りないくらいだと、"おかわり"したくなりますよねって。
- 頭がものすっっっごく柔軟で、常識にとらわれない
- 思いついたらすぐ始めて、さらに思いっきりやり通す
頭がものすっっっごく柔軟で、常識にとらわれない
佐谷氏の"頭の柔軟さ"は著書の中からも引用できるエピソードたくさんあるのですが*5、ここでは僕がごく最近に目の当たりにした面白い体験を1個だけご紹介します。
今年の2月のことです。
千葉県鋸南町で自治体主催の「町おこしを一緒に考えよう」的なイベントに僕は参加しました。佐谷氏はそのイベントの基調講演に登壇されたのですが、町内の視察でみんな一緒にバス移動していた時のこと。
茶色い土肌が露出したハゲ山があって、バスでそのそばを通りました。周囲は自然の青々とした木々ののどかな山が連なっているのに、人工的に削り出されたのが分かる異質な山がふたつほど突然にあらわれます。
僕ら二人は事前に関係者から、「そこは過去に採石場として切り出されたのだが、"景観が悪い"って地元住民のあいだでも問題になっている」って話を聞いていました。
その無残な姿の山を一目見て、佐谷氏はこう言う。
「あそこの山からスフィンクスを削り出そうよ」
「あっちの山はピラミッドにしよう」
「それから町長って役職をファラオに変えて選挙すればいいんだ」
めっちゃ面白いw
町でその存在をずっと持て余していたハゲ山の黒歴史を、一目見ただけで「いっそのこと面白く活用しちゃえばいいじゃん」ってコペルニクス的転回。(使い方あってる?ようは発想の転換がすさまじく速いと言いたい)
思いついたらすぐ始めて、さらに思いっきりやり通す
佐谷氏が近著を出版されたのが1月11日のこと。
「本が売れないご時世ならば自分で売りに行く」とでもいうように、自らの足で本屋さんを巡って「本を置いてください」っていう”書店巡りシャルソン"を出版直後から開始。
890店舗を巡るという目標を立てて、2月23日時点で100店舗を達成。
プレスリリース:書店めぐりシャルソン 100店舗・600km達成 – kyoblog
ご自身、他にもさまざまな活動をしながらなのに、その合間に本屋を巡って、あっという間に100店舗達成ですよ。
上記リンクを見ると分かりますが、北海道・帯広から日本各地、果てはクアラルンプールからプノンペンまで(笑)
常人にはちょっと真似できない実行力!
さて、
この記事では佐谷氏のすごいところを2点だけ挙げるにとどめました。
お話をじかに聞けば、もっともっと肌で感じるものが必ずあります。
面白い人、面白いことに巡り合いたいと常日頃から望まれる方は、
佐谷さんの「誕生日祝いください」に応じてみるのも一興だと思いません?
※「誕生日祝いください」って言って、その実よくみると「自分の経験を社会に還元したい」って無料イベントなんですよねw
3/10(日)です!
僕も行きますので、あなた*6とお会いできるのを楽しみにしています!!